写真と本と生身の体
カメラマンさんと話していた時、「写真なんてうまれて高々100年の表現だから」と言うのを聞いて、そこからぼんやり思ったことなど。
活版印刷も写真も何かしらの技術革新から生まれたメディアで、時の経過で技術が失われたらメディアそのものも失われてしまう。活版印刷も写真もデジタルに置き換わってしまいつつある。反動みたいに「活字の良さ」とか「フィルムの味が」とかいうブームも起こっているけれど、なくなってしまうのは時間の問題。昨今紙の本がなくなるって言われているけど、電書の技術がもっと進めば紙の本は贅沢品、嗜好品になるんだろう。そう言えば小さい頃読んだSFではボードと駒でプレイするオセロも紙の辞書も高級品で庶民の持ち物ではなかった。閑話休題。
デジタルデータはデバイスに依存してる、紙は実体があるけど燃やせばなくなる、となるとやっぱり石板(ハンムラビ法典みたいに)と壁画(ラスコーみたいに)最強なんじゃないの?と思った。
ここまで大袈裟な話じゃなくとも、カラープリントが褪せちゃうことで、モノクロ写真より新しい時代の画像が一斉に消えてるんだと聞いたことがある。下手したらカラープリント黎明期の記録がそこだけ抜け落ちるとかなんとか。
ここからは表現や伝達手段の話だけど、吟遊詩人は紙も印刷もなかった時代に口伝で情報を伝達してたんだからすごいとつくづく。だけど文学は言語に依存する時点で伝えられる相手がとても絞られるからなんと窮屈な表現方法かと思う。絵画彫刻も視覚に訴える点でさすが古いメディアだけど、結局立ち返るべきは身体表現なんじゃないかと。
踊り(天の岩戸)とか戦い(オリンピック)って祭祀と密接でとてもプリミティブな表現で、言葉が通じずともなんとかなるし、楽器がなくても体を叩けば音は出るし、とにかく身ひとつで成立させられる。
でこのプリミティブな表現とテクノロジーを融合させようとしてるのがライゾマティクスとELEVENPLAYのやってることなのかもしれない(ライゾマのインタビューとか読んだことないから見物人としての率直な感想だけど)。しかし私見では融合には全く至ってないし、テクノロジーすごいでしょっていうドヤ感が先に立ってる感じで表現として成立してないとすら感じた。これからこの分野はどんどん新しいものが生まれて成熟してそれこそ全く新しい表現のあり方が発生するんじゃないかと思うんだけど、自分が生きてる間に見られるのかどうか。
デジタル技術を利用した表現は頭打ちだって言説もあるけど、それはさておきデジタル跋扈の時勢だからこそ、身体の熱や厚み、質量に回帰というか揺り戻しが来るんじゃないかと思っている。生身の体を見、触れられるのは同じく生身の体だけだ。生きてる時間が全てでそれきりなので、やっぱり身体表現はすごい。
自分が生きてる間に少しでも面白い身体表現が生まれてほしい、それを観たい、という願望を書き殴って了。
ayabambi@2016紅白と、ダンスをメディアに乗せるって難しいなという話
夏から秋口にayaさんbambiさん間で色々あったみたいでお二人での活動を楽しみにしてる身としては本当に揺らされたけど、2016年の紅白も椎名林檎の後ろにいてくれてよかった。
カメラアングル見てると、椎名林檎がずっとこだわってるシンメトリーを強く意識していて、ayabambi自体のコンセプト(彼女たちはそんなこと明言してないけれど)のように見えるもの、もシンメトリーであったり一心同体だけれど違う人間の一対、とかそういうワードから導かれるので、椎名林檎にはやっぱりayabambiなんだなと。
で、今回の紅白にはダンスの有名どころだとイデビアンクルーの井手茂太さんとか菅原小春さんも出たり振り付けたり、土屋太鳳は身体表現力あるなあ女優として強いよなあ、と思わされ、やっぱり星野源のバックはELEVENPLAYだし恋ダンスはMIKIKO先生で、ここに水曜日のカンパネラが出てたら川村美紀子が出ていたかもしれないのに!!と思った。
ayabambiやMIKIKO先生は普段からショーやMV、ステージで映える振り付けをたくさんやってるけど菅原小春さんはジャンルが違うわけで、坂本冬美のステージは見てて歯痒さばかり募った。菅原小春さんを全く活かせていなくて、NHKのとりあえず呼んどきました感よ。ほんとうに怠慢でしかない。かと言ってどうすれば坂本冬美の歌が聴けてかつ菅原小春のダンスが伝わるのかというと私もわからない。そもそも無理な話なのかも。そういうわけで年末の締めはもどかしさばかり感じる結果となった。
今年というか今年度末はコンテンポラリーダンス充実してて、横浜ダンスコレクションの名和晃平と森山未來、世田谷パブリックシアターのピーピング・トム、彩の国芸術劇場ではヴッパタール。来年度のGWは池袋の東京芸術劇場はローザス。忙しい。
あと、昨年Mステに出てたライゾマティクスとELEVENPLAYのパフォーマンスは、カメラアングルのせいか全く楽しめなかった(でもあれってカメラアングルが肝なのでは)。新しい技術としては面白いところがあるのかもしれないけど、それをダンスパフォーマンスと一緒にして楽しめるところまでは昇華されていないと思った。
齢を重ね体が思うように動かなくなればなるほど、身体で語れる人はなんと強いことかと思う。言葉が通じなくとも、特別な道具がなくとも、身体ひとつで語り、伝え、表現できるのだから。
椎名林檎とAyaBambi、そしてマドンナ
2015年の紅白では椎名林檎と(椎名林檎の後ろで、というには大きすぎる存在感だった)AyaBambiが踊ってて、更にはしょっぱなから向井秀徳もワンフレーズだけ歌っててとても贅沢な数分間だった。
AyaBambiは椎名林檎の今回のツアーに帯同せずマドンナツアーのメインダンサーになっちゃってて、これはもう椎名林檎とは一緒にやらないのかな、ギャラもすごそうだしなーと思っていた。どこかの音楽番組で「マドンナにとられちゃったんですよね」と椎名林檎も笑い混じりに言ってたし。なのでまた一緒に踊ってるのを観られた喜びもひとしお。踊り自体はヴォーギング!な感じで、ずっと正座してるのは新しかったけど、もっと下半身までがつがつ動かすのも観たかったな。椎名林檎が和装だったから仕方ないのかもしれないけど。
2月のマドンナ来日コンサートで、AyaBambiもたくさん踊ってくれるので楽しみなんだけど、マドンナがお客さんをステージに上げてバナナをプレゼントする一幕に椎名林檎が出ないかなっていうのが楽しみ。13日と14日、どっちかは椎名林檎じゃないかなあ、だったら面白いのにな、と思っている。私は13日に行くので、待ち遠しい。
今月のVOGUE JAPANでダンス特集が掲載されてて、AyaBambiが出てて嬉しかった。森山未來も、Noismの金森穣も井関佐和子も。表紙はピンクのロングヘアでおなじみのフェルナンダ!久々に雑誌を買いました。AyaBambiのインタビュー、短いけど載っていて貴重。
DIC川村記念美術館 絵の住処(すみか)-作品が暮らす11の部屋-
千葉に仕事で用があったので、ついでに美術館に行って帰ろう、ということで行ってきた。
恥ずかしながらこの美術館の存在を今回はじめて知ったのだけど、とても充実した鑑賞体験ができて、早く次の展示に行きたいと思っているくらい。東京からだと結構遠いけど、そんなことは全く苦にならなかった。むしろ東京から片道2時間ほど乗り換え3回ほどの道のりも、美術館という絵の住処へ期待に胸を膨らませながら向かう楽しい遠足という感覚になる。
私が観た展示は、タイトルのように美術館内の11の部屋にそれぞれテーマ性のある展示がしてあるというもの。部屋はそれぞれ内装や照明、広さや天井の高さ、材質がまちまちなので、部屋の特徴と作品との組み合わせも深く味わえるようになっている。
特によかったのは目玉のマーク・ロスコの部屋。巨大なロスコが多角形の部屋の壁面を埋め尽くしており、否が応でも向き合わざるを得なくなる。長椅子も設置されているので、それぞれの壁面にじっくり見入るもよし、部屋をぐるぐると歩き回るもよし。次点で日本美術の部屋。鏑木清方の『雑司ヶ谷深秋』という作品がとてもよかった。この部屋、運良く長時間貸し切り状態だったので静かに作品のそばにいられた。
上野や六本木の美術館なんて、教科書級の大きな目玉がなくとも休日は入場待ち、人混みの隙間から作品を覗き見ることしかできない。しかしここでは展示空間にゆとりがあるだけでなく鑑賞客も少ないので、作品の鑑賞姿勢が根本的に変わってくる。作品とともにいるという体験を初めてできたように思う。気に入り衝撃を受けるあまり、展示を3周もするほどだった。
時間とお金をかけてでも、赴く価値のある美術館。超混みの上野や六本木でくたくたになるより、こちらを断然おすすめする。
4月下旬からは、サイ・トゥオンブリー!
Sia 1000 Forms of Fear
やっと聴いてる。MVが話題になったChandelierしか聴いたことがなくて、その時の印象は映像込みで好きな感じだけど他の曲はどうなのかな、というところ。やっぱり踊ってる人を見るのは楽しい。
アルバム通して聴くとまた違った印象で、それぞれの曲調を歌声の力でまとめている感じ。何度もアルバムの曲順のままリピートしたくなる。というかしまくっている。1枚の作品として優れていると思う。
鈴木理策『意識の流れ』 東京オペラシティアートギャラリー
会期ギリギリに滑り込み。
写真の見方はよくわかっていないのだけど、素直に見て素直に良いと思える展示でした。ピントの合わせ方が絶妙で、撮影者の見た景色がそのまま眼前に広がっているのだな、という感覚があった。そのまま写真に入り込めるような錯覚すら覚える。
展示スペースの使い方もよかったのだと思う、特に雪をテーマにした連作はあの広い空間でないと難しかったのでは。すべてのスペースが居心地よく、何度も回ってしまった。
カタログを買おうかなと思ったものの、8000円プラス税。映像作品や文章も収録されてるとのことだけど、高い。3000円くらいの廉価版と12000円くらいの豪華版で出してくれればいろんな人が喜ぶのではないかと思ったのだけど。貧乏なのでポストカードを数枚買って帰った。ポスターもあったのだけど、写真の占める面積が中途半端だったのでやめておいた。
鈴木理策写真展 意識の流れ|東京オペラシティアートギャラリー
妹尾河童『河童が覗いたヨーロッパ』
今週のお題「人生に影響を与えた1冊」
一冊だけ選ぶならば、これ。
『少年H』の作者、舞台美術家妹尾河童が主にヨーロッパ22カ国を旅したルポエッセイ。文化庁の助成金で海外派遣されたときに旅の記録をしたためていたものが、帰国後友人たちの間で評判となり出版されたという経緯がある。
各国の安宿を天井から俯瞰した図と各都市の印象を記したページが大半を占め、ホテルの部屋、窓、はてはビデといったところからこんなに地域性が読み取れるのか!と感心することしきり。筆者の「覗き」の鋭さに驚く。
ドイツが東西に分かれ、ロシアはソビエト連邦だった時代、もちろんEUもない。おそらく今よりももっとヨーロッパ各国の差異が際立っていたのだと思う。国境を越える列車で見た車掌さんたちのスケッチ、各国の寝台車のスケッチも面白い。
一冊に通底するのは、「自分と他者との差異にどう向き合うか」という視点だと思う。
あとがきに
日本もヨーロッパと同じであるべきだというつもりもありません。日本は日本。ヨーロッパはヨーロッパであるからです。ただ一ついえることは、日本がこれからも、ヨーロッパのものを見たり、つきあったり、大きくは外交や貿易をするにしても、彼等の考えかたを少しでも知ろうとすることや、ナルホドと思えるものは取り入れてもいいのではないかと思ったことです。
とあるように、距離を保ちながら謙虚な姿勢で「覗いた」記録。初出は昭和51年、1976年。およそ40年以上昔に書かれたものでありながら、グローバリゼーションが進むに連れ読んで感じるところも多くなっていくのでは。よし、妹尾河童が感じた差異を私も感じに行こう、と初めての海外旅行にヨーロッパ、パリを選ぶきっかけとなった一冊。
ちなみに妹尾河童の『覗いた』シリーズはどれも素晴らしい。このヨーロッパ編は最初の一冊なんだけど、以後インド、ニッポン、トイレを「覗いた」記録が出版されている。『河童が覗いたトイレまんだら』では、タモリ邸のトイレも覗かれている!