kyuugoshirae’s diary

読んだもの見たものなどについて

「鷹の井戸」杉本博司演出 2019年パリ・オペラ座

パリ・オペラ座350周年を記念した1年間にわたる公演の第一作目とのこと。日本の現代美術家杉本博司が演出を手掛ける。制作ドキュメンタリー番組と舞台の映像を視聴した。

casabrutus.com

原作は、イェイツが日本の能にインスパイアされた戯曲『鷹の井戸』。杉本版では不老不死をもたらすと言われる井戸の前で水が湧くのを待ち続ける老人とそこに訪れた若者。ついに井戸に鷹が舞い降り水が湧いたが、鷹が井戸を守っているため不老不死は得られず―という筋書きだ。

池田亮司が音楽を担当し、能楽師も出演するなど「能が持つ死生観」「日本のミニマルな能をオペラ座でバレエと融合させる」といった狙いやコンセプトは事前情報からもよく伝わり、ドキュメンタリーでも強調して言及されていた。

コール・ドには仏教美術の飛天が登場する。重力から開放され、天を舞うような動きや飛天に見られるような手の印相を多く用いた振り付けだ。印相に合わせて静止するところが多く、コレオだけ見るとローザスライヒを用いた作品を思わせるが、池田亮司の音楽と合っていなかったと思う。

また鷹を演じるソリストの衣装が素っ頓狂というか、舞台との調和が見られなかった。ホットピンクのレオタードと膝下丈のブーツなのだが、悪い意味でコスプレのようなチープな印象を受けた。レオタードの素材を変えるか、脚全体をレオタードやタイツで覆ってしまうか、ブーツの丈を変えれば少しは違ったかもしれないが、老人と若者を演じる男性二人が上裸にパンツと短めなブーツなのに対し鷹の衣装は素材感こそ統一された部分もあったが異質だった。

静寂と闇から転じて突然まばゆい照明が光ったり、ノイジーで静かな音楽とともに照明が激しい明滅を繰り返すあたりの演出は池田亮司(というかダムタイプ)を想起させるスタイリッシュさだ。しかしコレオとは合わない。

肝煎りであろうクライマックスの能楽師登場に至ってもこちらが没入できていないので驚きや感動がなかった。全体を通して「もうちょっと素敵な作品になるだろうになぜこうなってしまったのか」と思ってしまう。コンセプト倒れという印象であった。

最近読んでる漫画いろいろ

『コーポ・ア・コーポ』岩浪れんじ

COMICめづで連載中。実写映画化が先日発表された。

大阪の安アパートに住む人たちを中心とした群像劇。やり取りの間合いやテンポにわかるわー、あるわー、という瞬間がたくさんある。

作者さんのTwitterが面白い

岩浪れんじ🫀🌕⑤巻発売中 (@iwanamirenji) / Twitter

LINEスタンプが良くてヘビーユースしている。あとグッズもかわいい。

www.comic-medu.com

『メイコの遊び場』『マザリアン』など岡田索雲作品

コーポ・ア・コーポとだいたい同じ大阪が舞台の作品が多い。西成暴動も出てくる。Kindle Unlimited でけっこう読める。つげ義春オマージュみたいな遊び心が垣間見える画風。作品によってポップな感じに寄せてたり書き込み多かったりするのもまた楽しい。

メインストリームではない立場の人物や、捨象されがちな出来事にまつわる心の機微をうまいこと描いていて読んでて気持ちいい。

見出しに挙げた二作品はどちらも打ち切りになってしまったそうで、作者さんのあとがきは悔しさややりきれなさが全開になっている。読んでる方も「なぜ!!!」と思ってしまう。

どの作品も面白い作家さんなので、ご本人が満足できるまで描いたものをぜひ読みたい。こんなに面白いのに打ち切りになってしまうなんてもったいない。

『生き残った6人によると』山本和音

ハルタで連載中。調べたら23年夏に実写ドラマ化されるらしい。

ゾンビが感染者を出しまくる世界でショッピングモールに籠城してる人たちの話。タイトルによると6人が生き残るみたいだけど籠城してる人数が増減するから最後に生き残る6人が誰なのかわからない。

登場人物が嘘ついてたり過去がいろいろあったりあからさまに見栄っ張りだったり、それぞれキャラが立ってて良い。緊迫した状況のはずだけど会話のテンポで笑わせるところが多くて緩急が生まれている。

おなじ作家さんの『星明かりグラフィックス』も面白い。

 

ジジ&ピンチ 犬童一心 『セーラーゾンビ』

深夜ドラマのコミカライズらしいがドラマは見ていない。

ゾンビもののお決まりやパターンは全く詳しくないが、多分「ゾンビもの」という感じではなさそう。

ゾンビの恐怖よりシスターフッドみたいなものがメインで、ゾンビが発生した理由には最初から最後まで全く触れられない。

登場人物のキャラクターがそれぞれしっかり立ってて読んでて楽しい。ポップな絵柄でキャラクターごとに制服の着こなしやギミックが凝ってて見応えがある。

特に好きなのはイモリさん。メインキャラクターたちの半分もない背丈とマスコットみたいな頭身バランス、溶けてしまいそうなふわふわしたシルエットや表情、そして最後まで諦めずに策略を練るキレ者という、バックグラウンドをもっと知りたくなる魅力的なキャラクター。

 

 



朱戸アオ 『Final Phase』と災害ユートピアについて

都心の湾岸地区にウイルスの猛威が襲い掛かる!! 世界との距離が近くなった現代日本に、警鐘を鳴らす本格ディザスターコミック!!

Amazon Kindle Unlimited 紹介ページより引用)2011年に出版されたコミックで、同作者による2017年発行の『リウーを待ちながら』に続くような「未知の感染症」を扱った作品。

新型コロナウイルス感染症を連想させるが、COVID-19もなにも発見されていなかった頃の作品だ。

舞台は遠くない未来の東京の都市。原因不明の体調不良や急死が相次ぐ中、感染拡大阻止や感染者の回復方法を探る医師と感染症研究者、自分にできることはないかと奔走する地域住民など、コロナウイルスが確認された初期はこんな動きをしていた人がいただろうと想像するような描写がたくさんある。

『Final Phase』を最後まで読むと、作者による大きな仕掛けがある。虚構であるはずの作品世界が現実と繋がっているような錯覚を起こさせる仕組みで、今読むことでもっとインパクトがある読書体験になるはず。

作者の朱戸アオ先生は感染症をはじめ色々な分野に博識なようで、『Final Phase』の後に描かれた『リウーを待ちながら』は感染症がもたらす個人やコミュニティの変化をより深く描いた作品だ。どういうバックグラウンドを持つ方なのかとても気になる。全3巻と読みやすい長さなのでおすすめ。

今連載中の『ダーウィンクラブ』も優性思想やグローバリズムについて描かれており、突っ込んだ議論に触れてくれそうな感じ。スリルとドラマ性がある展開も面白い。まだストーリーの中盤あたりのようなのでリアルタイムで追う楽しみも味わえる。

『Final Phase』を読んで初めて知った言葉に「災害ユートピア(dissaster utopia)」というものがある。

多数の犠牲者を出し、一部地域に集中した悲劇を目の当たりにした社会では、人々の善意が呼び覚まされて一種の精神的高揚となって理想郷が出現するという。

災害ユートピア | 日医on-line

2009年にアメリカの著作家レベッカ・ソルニットにより提唱されたというが、このような現象に関する指摘は阪神淡路大震災に際して日本人からもなされていたらしい。

災害ユートピア - Wikipedia

悲惨な事態に巻き込まれると集団ヒステリーやパニックなどコミュニティを広く覆う雰囲気や空みたいなものが発生するが、「災害ユートピア」も集団ヒステリーの一種と位置づけられるのではないか。危機的状況の渦中にあるコミュニティで、他者への善意の行動によって自分を保とうとする人は多い。

災害の中で互助精神が生み出すユートピアというのは確かに的を射た表現だ。そして同時に奇妙な連帯感が是とされることも多いと思う。

例えば東日本大震災の後は「絆」というワードが至るところで使われ消費され、経済活動の動機付けになったりした。「絆」=正義や是であり、「絆」と言っとけば何でも通っちゃうし、「絆」的なムーブメントになにか変なところがあっても否定しにくい雰囲気だったように思う。ともすれば全体主義的、「絆ファシズム」みたいになりかねないのも災害ユートピアの影響と言えるのでは。(私は「絆」の雑な濫用をものすごく懐疑的に見ていたし今もそうだ)閑話休題

もちろん災害ユートピアはずっと続かず、その後コミュニティがどう回復するかが大きな問題で、そのあたりはwikiにも詳しい。

今現在の新型コロナウイルスをめぐる状況にしても経済的打撃は回復しておらず、後遺症に苦しむ人や精神的に傷を負った人たちのケアはどうするという問題もたくさんある。強い新型変異株の発生だってあり得る。

こうなると行政だの政治だの国際世論だのスケールが大きな話になってしまうが、「絆」などと耳障りのいい言葉を使って災害を消費できた頃はまだ余裕があったんじゃない?と皮肉のひとつも出てしまう。

「災害ユートピア」という相反するワードからなるネーミングはとてもインパクトがあり、名前がつくことでものごとが分かりやすくなったり概念を共有しやすくなるという名付けという行為の力を強く感じた。

『ゆりあ先生の赤い糸』が完結した

休眠状態だったこのページに突然アクセスが急増して驚きました。こちらのpostが週刊はてなブログで言及されていたようです。

kyuugoshirae.hatenablog.com

blog.hatenablog.com

こちらにもある通り、『ゆりあ先生の赤い糸』は先日最終回を迎えたのだが、ゆりあ先生はやっぱり日々の生活を回すことと厄介事や心動かされることとを両立するパワーがある人でした。

自分がこの作品に入り込めたのは、ゆりあ先生が降って湧いた厄介事に奮闘しているところだけでなく、ゆりあ先生が日々の生活を回す描写が多かったからだと思う。ゆりあ先生は毎日どんなものを作り食べ、どんな人と接してどう反応しているのか。また服の好み、スキンケアや体調管理、コンプレックス、許せること許せないことの線引きなど。こまごまと知るにつれてこの人こういう思い切りの良さがあるよな、とかこういう気の遣われ方するの嫌う人だよな、と彼女の人となりがはっきりこちらの頭に描かれていく。

作中では突拍子もないことがたくさん起こり、ゆりあ先生は突拍子もない対応をすることがたくさんある。その度この人はこういう対応するよなあと納得するし、読んでる自分も多少の突拍子もなさには動じなくなった。

食事をし眠り起き体調を保つといった営みは、地味で面倒で細々した膨大な作業の積み重ねで成り立っている。ゆりあ先生はこの家の生活を回す立場をやりつつ厄介事に動揺したり人間関係のややこしさに苛ついたり恋をしたりと、よくそんなに体や感情を動かせるなあと思ってしまった。ゆりあ先生は「しょーがないだろこうでもしないとやってらんないよバカヤロー」とか言ってそう。

当然のように作品が終わるまでゆりあ先生の周囲には色々なことが起こるが、ゆりあ先生はこれからも日々の生活をこなし、感情を動かしながら生きていくんだなと思う終わりだった。「色々あっても元気に過ごせる平凡な日々こそ得難く素晴らしい」といった変に前向きなテイストのメッセージは微塵も込められていないと思ったし、大変なことは大変だバカヤロー!というエネルギーを最後まで感じた。

こんな話を考えて、生活を回しながら作業して(作者の入江喜和先生のブログを読んだ印象だが入江喜和先生は生活をぶん回している)、入江喜和先生は地に足を付けた生活者であることと創作活動を両立している怪物のような人ではと思ってしまう。作品のエネルギーに圧倒されることを楽しめる作品だった。

最終巻のバナー下にネタバレを含む感想があります。

「突拍子もないこと」の最たるものがコロナだと思う。一変した世の中で身を守りつつ生活しなければいけない。

この作品はコロナがある世界になるのか、またコロナを取り上げるならどう扱うのかとても気になっていたが、ゆりあ先生の生活もコロナで大変なことになっていた。

連載中の色々な漫画で「作品世界にコロナを存在させるかどうか」はとても興味深いところで、「この作家さんがコロナが存在する世界を描いたらどうなるんだろう」と考えることが多い。

漫画に限らず表現とか創作とか呼ばれるものの中でパンデミックをどう扱うか、またそもそも扱わないのか、というのは作り手の考え方や創作のスタンスが大きく反映されるトピックのひとつだと感じる。

避けようのない理不尽な生活の変化という経験を作り手や受け手含めた全員が共有している。こんなに大きな経験を多くの人間が共有することはめったに起こり得ないだろう。作り手がこの出来事をどう捉えているのか、直接的であれ間接的であれどう作品に反映されるのか、とても知りたいし気になる。また、受け手の自分がどんな反応をするのかもとても気になっている。

入江喜和『ゆりあ先生の赤い糸』

ここ数ヶ月の間に一番衝撃を受けたのは『ゆりあ先生の赤い糸』という漫画で、「とりあえず読んでください」としか言えない。というのも文章で内容を書いたところで全く伝わらないからだ。

主人公の「ゆりあ先生」は夫とその母と暮らしており、突然倒れた夫の自宅介護をすることになり更に夫の様々な人間関係をゆりあ先生が背負う羽目になりどうにか乗り越えようと奮闘する……

あらすじを書いてみたがこれは作中の出来事の羅列にすぎない。

作中でおこる出来事たちは素っ頓狂なのだが読んでいるとなんとなく受け入れてしまう。それよりも感情の動きや人間の思惑の絡まりや疲労感や湿度や匂いや臭いまで伝わる表現がこの作品の凄さだと思う。これは文章に書き表すことができない。

壮絶なストーリーのはずなのに重々しく感じない。ヘヴィなトピックが多いがどんどん読んでしまう。衝撃や残るものが多く、こんな作品を描く人は衣食住その他の日常生活と創作とを両立し得るのかと思ってしまう。それくらい読んでいて揺り動かされる作品だ。

作者の入江喜和先生は『宮本から君へ』『ザ・ワールド・イズ・マイン』などの新井英樹先生とご夫婦だそうで、新井英樹先生のあの作風も相まってどんな関係性なんだろうかと考えてしまう。二人とも長く描き続けている同士でお互い唯一無二の強い作家性を持っているから、生活から作品にもたらされるものがあるのだろうか。天才同士の関係性に一読者がどうこう邪推したところで何がわかるわけでもないが、それでも邪推したくなる。

ameblo.jp

ご本人のブログを読むと山岸凉子先生シンパ(ファンとか尊敬してるとかそういう言葉のくくりではないと思う。信者というのもしっくりこないので暫定的にシンパと書いた)のようで、そりゃこんな作品描きますわと納得する。単に私が山岸凉子原理主義者みたいなもんだから過度に「山岸凉子に影響された人らしさ」を感じるのかもしれないが…。

  『ゆりあ先生と赤い糸』は連載中なのでまだまだ追えるし、作者の過去作品も多く、この作者の作品をすべて読みたいと思う。長く描いていた人なのに知らずに生きてきた自分は何をしてたのかと思う。もっと早くから読んでいたかった。

 

追記

週刊はてなブログでこちらのpostに言及していただきました。ありがとうございます。

先日ついに完結した『ゆりあ先生の赤い糸』について書きました。

 

過去書いたものの転載作業と近頃思うことなど

以前書いていたものをこちらのブログの過去記事としてサルベージする作業を少しずつしているのだが、自分の文章の癖がよくわかって面白い。特に、癪に障る言い回しが結構あり、「よくこんな薄っぺらいことを長々ともったいぶって書いたな」と思うものもある。今も無自覚にそういう鼻につく文章を書いているのではないかと思う。

なにかの盛り上がりや感情について記録した内容は今読むと面白さを感じることが多い。その時々のできごとや感情、考えなどを書いておくのはやっぱりいいなあと思う。当時の雰囲気や動揺は映像やデータに残せないし、経験した当事者の視点で書いた記録でしか伝わらないものもある。熱狂の温度感や高揚の過程を追うのは、自分の書いたものであれ他の人の体験記であれ面白い。

最近は漫画やドキュメンタリーをよく見る。色々考えてるけど全くアウトプットしてないので、どんどん澱が溜まる感じがしている。ご時世ご時世と言ってる間に人と対面で話すことがほぼなくなり、非対面のコミュニケーションの機会もぐんと減った感覚がある。私が発する言葉や話題もつまらなくなっていると思う。会話の反射神経が鈍ったと感じるし、声帯が弱ったようで大声を出しづらくなったのには驚いた。

平和の祭典の間はじっとしておこうと思っている。オンライン英会話レッスンを集中的にやって世界各国の講師に東京はこんなにアホな事態になっていてほとほと呆れるとか言い回るのもよいかもしれない。伝えたいという意欲によってボキャブラリーや言い回しのバリエーションが増え、記憶に定着して面白いのではないか。いずれにせよいい機会になりそう。(これは皮肉です)

ポカリのCMのことを書きたくなってブログ作りました

きょう2021年4月9日金曜日に公開されたポカリのCMがとても語りたくなるものだったので、衝動的に色々書きました。


www.youtube.com

瞬発的にバズって「CGじゃなくてセットが動いてる」「15歳の中島セナさんがすごい」と話題になっていて、私も疾走感ある映像や中島セナさんの表情やセットに目を奪われた。

面白くて何度か繰り返し見てるうちに気になったのは「でも君が見えた」。このCMのタイトルで、CM冒頭にも出てくる。

「でも」って、何に対しての「でも」?

主人公の笑顔は不満とか嫌なこととかネガティブなものと対になっていることになる。何か(嫌なことや不安なことや悲しみ)があった、でも君が見えた。とかそういうことだ。

もう一度CMを冒頭から見る。窓から光が射す薄暗い廊下の真ん中を一人で歩く主人公。主人公が見えていないかのようにはしゃぎながら主人公を追い抜いていく男の子たちと女の子たち。みんな二人一組で楽しそうにしている。どの二人もみんな、同性の記号のような服装をしている。スカートやスラックス、長い髪や短髪、後ろ姿で見るかぎりみんな「同性」。

主人公が振り返り、他のみんなと逆の方向に走り出す。「その手を離してしまったならきっともう取り戻せない」という歌詞と共に波打つ廊下と吹き付けるテスト用紙。アメフトのユニフォームや道着を着た部活に行く生徒たち。廊下から見える教室で楽しそうに踊ってる生徒たち。

「その手を離してしまったならきっともう取り戻せない」に続く「としてもまた」という歌詞と同時にまた主人公は振り返り、「春を越えてゆく」という歌詞とともにぐっとドアを内側に開く。ドアの外の桜吹雪とともに、藤や桜に囲まれた波打つ通路を主人公は疾走する。(この湾曲したドアをどうやって開く仕組みにしているのかとても気になる)

ドアが開いた講堂に駆け込むとそこは壇上で、青い緞帳がおりている。主人公は髪の長いスカートを履いた生徒と手を取り合う。手を取り合って笑顔で宙に浮く二人を中心に世界は回り、緞帳は軽く舞い上がる。「目に映るものすべてを 青色に染めてゆく」という歌詞が流れる。うなづいた相手の手を引っ張るように主人公は壇上を駆け下り、他の生徒たちの真ん中を割って二人は講堂から出ていく。「手を伸ばそうよ、届くから」というナレーションと、笑い合って手を繋ぐ二人。「何が起こるかわからない でも君が見えた」という歌詞。

「みんなでダンスしてたポカリのcmに対するセルフパロディーや自己批判のメッセージかも」

「コロナ絡みでいろんなコミュニケーションが難しくなって、出会いの季節のはずだった春が今はそんな呑気な雰囲気じゃないのを反映してる」

「友人とか性別とかを越えたいろいろな関係性のあり方を示唆してる」

とか、見る側が推察とかシェアしたくなる内容で、やっぱり勝手に色々考えたくなった。

冒頭の主人公を取り巻く学生たちには一見異性同士の組み合わせの二人がいないけど、本当は異性同士の二人なのかもしれない。だって「短髪でアメフトのユニフォームを着た生徒」や「スラックスとネクタイの生徒」が男子生徒とは限らない。主人公と手をつないだ「髪の長いスカートの子」も女生徒かどうかはわからない(知りようがない)。

「多様性へのメッセージ」「LGBTQにさらっと触れてる」とか言ってしまうのは簡単だが、ここで「多様性」「ダイバーシティ」「LGBTQ」とかのワードを軽く使ってしまうと陳腐になるように思うのでやめておきたいところ。

 

今このCMの情報をみた

natalie.mu

これを読むとこの曲はこのCMのために作られてるんじゃないかという感じ。

「勇気を出して、自分の道を進んだら『逆風』が『追い風』に変わる」というメッセージが込められている。

らしい。

ちなみに主人公が通路を走っているシーンの歌詞がうまく聞き取れない。

「十年後(?)言おう(?) 忘れてく」

と聞こえるけどわからない。この A_o というアーティストや BULE SOULS という曲の歌詞がわかるようになったらもっと面白く見られるのかも。

ゴリゴリなマーケティングの視点や過去のポカリのCMを比較する視点で書いたりクレジットを見て書くと無粋な内容になるだろうし、箇条書きにするとプレゼンみたいだしと思い、勢いで書き散らしました。